【金閣寺周辺】学問の神様・菅原道真は、なぜ北野天満宮の天神様となったのか

2017/01/14 18:56

北野天満宮と菅原道真

学問の神様として知られる菅原道真。菅原道真が祀られている京都の北野天満宮は、受験シーズンを中心に、毎年多くの参拝者が訪れています。菅原道真は九州の太宰府に流されその生涯を終えましたが、なぜ京都の地で天神様として祀られているのでしょうか。その背景には、貴族政治が花開いた平安時代中期の、藤原氏の権力闘争のドラマがありました。

菅原道真の生涯

菅原道真は平安時代の845年に、代々学者の家であった菅原家に生まれました。道真は幼少期から勉学に励み、18歳で文章生(大学の学生)となり、26歳で国家試験に合格して役人となりました。そして33歳で大学で教える先生である文章博士となります。その後886年には讃岐国の国司に任ぜられ、890年に京都に戻ってからは当時の宇多天皇の元で大変な出世を遂げていきました。894年には遣唐使の中止を進言し、7世紀から続いた遣唐使がやめられることになったことでも知られています。
899年、道真は宇多天皇の次に即位した醍醐天皇の元で右大臣に任命されました。同時期に摂関政治で知られる藤原家の藤原時平が左大臣に任命されています。901年、道真の政治的な出世を目障りに感じた藤原時平の陰謀で、菅原道真は謀反の疑いをかけられ、太宰府に流されてしまいました。その2年後の903年に、太宰府で菅原道真は生涯を閉じました。

菅原道真は、なぜ北野天満宮の天神様として祀られるようになったのか

平安時代には、疫病の流行や、有力貴族が病で死亡すると、政治的な陰謀等の犠牲者の怨霊のせいだと考えられていました。菅原道真が藤原時平の陰謀で太宰府に流されて903年に死亡した後、京都では藤原時平が39歳で急死し、3年間疫病が流行り、醍醐天皇の皇太子と次の皇太子がなくなるなど、様々な出来事が起こりました。これらは菅原道真の怨霊によるものだと人々はおそれました。そしてついに930年に、清涼殿落雷事件(天皇が日常生活を送る清涼殿への落雷)が起き、これにより醍醐天皇も病気となりまもなくなくなります。清涼殿落雷事件も菅原道真の怨霊のためと考えた人々は、怨霊は「まつる」ことで鎮められると考え、菅原道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮を建てました。
その後菅原道真は学問・文芸の神様としても慕われるようになります。

学問・文芸の神とされた道真をまつる、北野天満宮の発展

北野天満宮は全国に12000社を超える天満宮・天神社の総本社です。
菅原道真が学問・文芸の神様として慕われていたことから、文人らが集う場となり、室町時代には連歌の中心地ともなりました。1587年には豊臣秀吉によって北野大茶湯が開かれ、また1603年には出雲阿国が社前で初めて歌舞伎を見せたことから、歌舞伎発祥の地とも言われています。
また北野天満宮の宝物殿にある「北野天神縁起絵巻・承久本」(国宝)には、菅原道真の生涯と天神信仰が生まれるまでが描かれています。

菅原道真をまつる本殿、道真ゆかりの梅など、北野天満宮には道真にまつわる見所が多数

菅原道真をまつる北野天満宮の本殿は、1607年に豊臣秀頼が造営したもので、八棟造と呼ばれる桃山建築による豪華絢爛なつくり。国宝に指定されています。
また菅原道真は太宰府に流される際に「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」という歌を読んでいます。北野天満宮には道真ゆかりの花である梅が約1500本植えられ、花の季節には紅白の梅の咲く様子が見事です。

北野天満宮の基本情報

北野天満宮
京都府京都市上京区馬喰町
http://kitanotenmangu.or.jp/index.php

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北野天満宮
京都府京都市上京区馬喰町
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